Girls in Grindhouse

映画と百合とかアイカツが好きなオタクの思想の垂れ流し

君の声を届けたいが今年ワースト入りした話

ネタバレはありません

このブログではいつも「不当な評価を受けている作品」を声高々(か?)に取り上げてきた。

そしてこの「君の声を届けたい」なぜか自分の周りでは絶賛だらけなのである。俺の感性がおかしいのか?と疑うレベルだが今回ばかりは胸を張って俺が正しい、と言いたい。そうしてこの記事を書くに至った

というわけで、俺がどうしてこの映画にダメダメの烙印を押す羽目になったのかを記述していきたいと思う

目次

 1.映像的な歓び/映画である必要の無さ

 

 2.商業ありきの映画臭さ

 

3.総評

 

 

  

1.映像的な歓び/映画である必要の無さ

かの「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」で知られるアレハンドロ・ホドロフスキーは「ホドロフスキーのDUNE」にて言いました。

映画は映像だからセリフは削れ」

(正確な引用ではないですが意味は大体こんな感じでした)

そう、映像だからこそ出来る表現。映像の歓び。それが本作では一切感じられなかった

 

そして本作は一番やってはいけない事をやってしまった、説明セリフだ。先の引用と真逆を行くものである

レコードを見れば「わぁーレコードだあ」 カエルを見れば「カエル」 ラジオを見れば「ラジオ」

......????? 見ればわかるものを何故一々口にするのでしょうか?別に主人公がそういうキャラだという説明は特にありません。ただの独り言です。どうしてそんな手法を取ったのか、その理由については2部とも繋がるところがあるのでそこで説明します。この一々セリフにする辺りは米林監督作品に通ずるところを感じました。ぶっちゃけ自分はこの最悪な手法にアレルギー反応のようなものがあるので余計に厳しかった

と、いうように映像作品としては最悪です。そもそも「声」を題材にした映画が「映像」と両立するわけがないんですよね。両者は対極にあると言っても過言ではありません。「声」で説明するか「映像」で説明するか。本作は映画でありながら前者を選択してしまった(その理由も後述します)ので、やはり私としては今年ワースト映画なのです。というか、「声」を押し出すならそれこそ劇中で多用されたマクガフィン「ラジオ」を利用してラジオドラマにでもすればよかったんじゃないでしょうか、それくらい映像である意味がないです(ラジオが身振り手振りが伝わらないから言葉でちゃんと伝えないといけない、という一幕があるのですがラジオならレコードがあっても「レコードだ!」という必要があったし本当にラジオドラマにでもするべきだったと思います)

 

2.以前ありきの臭さ/ハードルの高い初見

以前「デスノート Light up the NEW world」を見た際にそれはもうボロクソに貶した。映画単体の出来もなることながら「デスノートっつうブランド使って客呼び込んだろーwww」という制作陣の映画に対する情熱ではなく商業の一環としての姿勢しか感じられなかったからである。

映画中に漂うこの声優推しの商業臭さ、これが鼻についてしまったのもワーストたる所以です...
 
 
3.総評

Twtterで僕がボロクソ言ってると『めっちゃ挑発するんですけど、「映画としては駄目だけど百合としては強い」ってまんまポッピンQじゃない?』

とのご指摘を受けました。正直「???????????」と言った感じです。

以前拙ブログでもポッピンQに関しての記事は書きましたがあちらはキャラクターの感情や物語の進行に合わせて画面のうごきが左右で一貫されている、映像に拘った非常に映画的な作品だ、という記事でした。だから「映画としてはダメ」という部分には異議を唱えます。

この作品を通じて改めてポッピンQのやりたかったこと、その野心の高さ、クオリティの高さを実感しました。他sage他ageは嫌いですが挑発されてキレてるのでアンサーしておきます。まあとりあえずポッピンQを見てください

 

P.S.もしかしたら僕が「君の声を届けたい」から何か見落としていて自らの頭の悪さを露呈してしまっただけなのかもしれません。

なので、「いや、こうこうこうだから君の声を届けたいは素晴らしい映画なんだ」という意見があったらぜひTwitter@nnnaritayanまでよろしくおねがいします。ただし物語がよかった、という指摘だけはやめてください。僕は映像作品の話をしているので。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」感想と賞賛と愚痴

ネタバレはありません

 

この映画が酷評されている理由がわからない。
恋愛映画のようにマーケティングされていたにもかかわらず浮遊したまま物語が終わり安易に男女がつがいになって終わらなかったのがいけなかったのだろうか。そればかりは酷評されているみなさんの気持ちになってみなければわからない

しかしTwitterで4.7万RTされている「打ち上げ花火ひどいらしい」とyahoo映画のレビューをスクショして広めたツイート。
その内容は「君の名はの二番煎じ(企画はこちらが先)」「中身がスカスカ、演技が下手、作画が~」etcと抽象的で雑で控えめに言っても酷い
このツイートが広まってしまった事、それを真に受ける人間が多すぎた事がこの作品最大の不幸だろう

酷評自体は別に構わないのだ、しかし酷評する人間というのは大抵が短文で自らの言葉を持たない。
もし仮に「物語が水に始まり水に終わった」「医者のゴルフの玉がハズレてばかりだったそれが何のメタファーだったのか」「少年が線路を歩く意味とは」なんかを理解している上で理由付けして酷評している人がいたのならぜひ話を伺ってみたい(というかそもそも夏休み映画にしても「少年が線路を歩くってベタすぎるだろう。それでもその意図を汲み取れてない人間のほうが多いみたいだが)

さて、文句はここまでにしてここからは僕は自分の言葉でこの作品を褒めることにしよう。
まずこの作品は「中学生」という時期を切り取ることに徹した映画だ。
とにかくヒロインなずなが、エロイ。これはもう中学生の男子が主人公だから仕方ないだろう。作中では何度も中学生男子っぽい下ネタが出てくる。この感性は男性にしかわからないかもしれない。だから僕はこの映画を見て「チンポ生えててよかった~~~~」と思った。なずなは主人公たちより背が高く大人っぽく、酷く扇情的でフェティシズムでそれはもう中学生男子を誘惑する「小悪魔」以外の何者でもないだろう。

ここでたまたま見かけた「シャフトっぽくない」という感想に異議を唱える事になる。
シャフトはこれまで物語シリーズで「怪異」、劇場版まどマギでは「悪魔」を描いてきた。そんなシャフトが「小悪魔」を描く事はなんらおかしな話ではないだろう。

またこの映画はそれはもう演技が素晴らしい。菅田将暉くんの映画は棒と言われてるらしいが、それが逆にこの映画に取って功を奏している事にどうして気付かないのだろうか。
菅田将暉宮野真守の演じるキャラクターは少年的、対して広瀬すず演じるなずなは大人びている。
ここで宮野真守氏は敢えて少年っぽく棒読みな演技を見せてくれた、その手腕たるや。
そうして棒っぽい少年二人、に対してこれはもう意図して設置されているのだろうが広瀬すず氏の演技はうますぎるのだ。あいつはバケモノなのか!?
海街diary」でベストアクトだと思ったら「ちはやふる」で和製帝国の逆襲をやってのけ「怒り」ではまさかの☓☓☓されるような役柄を演じ一皮剥けた広瀬すず氏。そんな彼女はなんと、声優まで上手かった。もう本当に欠点が見当たらない、彼女が瑠璃色の地球を歌うシーンで私は鳥肌がたった。サントラを即購入した

原作既見だったため電車以降のシーンはどうなるのかハラハラしっぱなしで、だからこそ瑠璃色の地球からの流れで度肝を抜かれ、その虚構の力に涙腺が緩んでしまった。
そして虚構の力が強ければ強いほど「中学生」の無力さが輝くのだ。なずなの父に殴られるシーンの現実への、大人へのどうしようもない抗えなさ。あのシーンを見て逆にどうして「中学生の映画」だとわからなかったのかが知りたい。

とりあえず気になっている人は見に行って損はないと思います。
賛でも否でもいいので自分の言葉でしっかりとした理由付けのある感想を落としてください頼みます。

「5つ数えれば君の夢」がオールタイムベスト入りした話

f:id:nnnaritayan:20170524214717p:plain

何故かアニメ映画の話ばかりしてきたがたまには真面目に映画の記事を書こうと思う。

 

序文~読み飛ばし可能~

さて、どうも動画配信サイトで見る映画というのは受動的になってしまい垂れ流してしまうフシがある。個人的に「あれがみたいから借りに行こう」と思って向かうレンタルと違い返却期限もないし、1クリックでなんとなくあらすじもろくに知らないまま適当に見れるいわば「暇つぶし」のようなものになってしまっている。

しかしそんな動画配信サイトNetflixで私は半ば事故的に出逢ってしまった、この作品に。

元々、「5つ数えれば君の夢」及び山戸結希監督の名前は「溺れるナイフ」で「よくぞ少女漫画原作ティーン向け商業映画の枠組みをぶち壊しここまでやってくれた!!!!」とガッツポーズし2016年のベスト10にも入れた、という事もあり充分に存じ上げていたしそのまま過去作も履修しようと思ったのだが如何せん残念な事に最寄りのレンタルショップに揃いも揃って取扱がなかったのだ。

 

そしてそのまま忘れてしまい半年が経つ頃、その瞬間はやってきた。

「あーそういえば、これ見たかったんだよなあ」

ソーシャルゲームをやりながらその片手間にでも垂れ流す作品を探していた筈なのに、冒頭から「5つ数えれば君の夢」の世界に入り込む、文字通り"夢中"になってしまっていた。

 

題名通り、オールタイムベストに入ったと書いてあるがパッと思いつく限りでのマイオールタイムベストは

「第三の男」

悪魔のいけにえ

「劇場版アイカツ!

~ここまでぶっちぎり~

サスペリア」(Part2も好き)

「帝国の逆襲」

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド

ファイト・クラブ

スパイダーマン

死霊のはらわた2」

ブレードランナー

「ファニー・ゲーム」etc...

といったようにまあ疎い人でもタイトルだけで分かるだろうがジャンルで言うとホラーに属したり所謂「秘宝系」の映画ばかりなのである。だからこそ、「5つ数えれば君の夢」(以下5夢と称する)がランクインする、それもかなりぶっちぎりラインの上に、という事実が余計に浮き彫りになるのだ。

(かと言ってキネ旬系の映画も興味がないわけではない。そもそも岩井俊二監督なんかは大好きだし(記憶が確かなら)関西ローカルのニュース番組で山戸監督が影響を受けた監督として岩井監督を名前に挙げていたので興味を持ち溺れるナイフも見に行った)

 

しかし、映画としては「秘宝系」が好きな私であるがTwitterアカウントを見てもらえば分かるように私は「百合」というジャンルが大好きなのである。

百合を追い求め、様々なアニメや漫画、小説を摂取してきた。しかし、しかしだ。

 

映画で百合を観たのはこいつが初めてだし、なんなら、こいつを越える百合映画なんて今後一生登場しないのではないだろうか。私の好みのド真ん中をぶち抜いてきた、最強の映画だ。

 

ここで「5夢は同性愛の映画じゃないから百合じゃない」とか「アデル、ブルーは熱い色」とか「キャロル」とか「お嬢さん」とかあるじゃないか、とか、「百合とレズってどう違うんだよ」とかそういう指摘が出てくるかもしれない。

ここで引用させて頂きたいのがこちらの百合展2017における私が敬愛してやまない作家綾奈ゆにこ先生の序文である。

 

 

 「百合」って何だろう?未だ漠然としています。女の子が二人いれば百合―――恋愛感情に限らず、友情や愛情、嫉妬、憎しみといった強い感情がともなえば百合だと個人的には思っていますが、断言は出来ません。それぞれが百合だと思ったものが、百合です。 

私は、5夢は百合だと思った。

と、言うわけで百合レズ論争はここまでにしておいて以下、私が「百合としていいと思った部分」と「映画としていいと思った部分」の2パートに分けて烏滸がましいようではあるがこの作品への賛歌を捧げたいと思う。

 

1.映画としての5つ数えれば君の夢

まず、「溺れるナイフ」が先述したように「ティーン向け商業映画」の枠組みをぶっ壊した映画だとするならこちらは「アイドル映画」の枠組みをぶっ壊した映画であるという点抜きには語ることは出来ないだろう。

昨今のアイドル映画と言えばマイナスイメージが付き物で、凡百のB級ホラー映画なんかを想像しがちである。しかし山戸監督はDVD特典にてこう言ってのけた。

 「女子流さんの今の輝きを封じ込めた映画」

「映画は一瞬を切り取るもの、今輝いてる人たちを使えるのは不利ではなくアドバンテージ」

そうして出来あがった映画はまさしく「あの頃の女子流さんたちにしか出来ない、高校生の文化祭の一時」を描いた作品だった。

しかしこの作品を映画オタクの友人に勧めた所「演技が下手だった」と言われた。けれど私はそうは思えない。

女子流さんたち、特に委員長を演じる中江友梨さんや、りこを演じる新井ひとみさんの少し舌足らずで、確かに下手とも捉えられうるかもしれないその演技に監督の手腕が光る独特の詩的な台詞回しと実在性のある会話が合わさり奏でられるハーモニー。これは本当に一歩間違えれば私も「演技が下手だった」と評する側に回っていたかもしれない、絶妙な均衡の上に成り立っている奇跡的な映画だ。

更に言うと、新井ひとみさん、顔が良すぎる。ぶっちゃけ超好み。この作品にハマった別の知人も庄司芽生さんのオタクになるかもしれない、と言っていたし「アイドル映画」としても大成功を(自分の周りでは)収めている。

 あと都を演じる小西彩乃さんが「香川照之」「ゆれるのラストとか出来そう」って言われてたのがツボでした。

 

さて、それではちゃんと具体的な所に踏み込んで話をしてみよう。

まず冒頭4分程の画面こちら側に向かってスプリットされた画面で歩いてきて「監督 山戸結希」と出てくる所。この時点で尋常じゃない雰囲気が漂っているし、これ以降スプリットは3度出てくる。2回目はタイトルバックの前、3回目は寝起き(ここは各キャラの特徴が出てて面白い)そして4回目はりこがプールへと飛び込むシーンだ。

その4回目のシーンの白眉っぷりったらもう筆舌に尽くしがたいモノがある。この映画、名シーンは山程あるが私はこのシーンが一番好きだ。中野サンプラザ前でカメラワークがぐるぐると回りながら、コメンタリーにてどちらの発言か忘れたが「告白ですよね」と言わしめたあのシーンも捨てがたいが、やはり私はこのシーンを選ぶ。

あれは青春の通過儀礼(イニシエーション)でもあり、りこは「向こう側へ行けた人間」(ちょうど画面の奥に配置されている)でさくは「飛び込めなかった側の人間」として描かれているのも圧倒的に正しい

そういうメタファー繋がりで言えば電車は日常のメタファー、後半ヘリの音がするのはそこから非日常になることを告げる鐘の音であるわけだが、宇佐美が高木くんにおセッセに誘われる後ろで電車が走っているのは挿入のメタファーなのかなあ等とも思った

 

さて、次にその「実在性」だ。この映画を観ているとあたかも「自分も女子高生になれる気がする」くらいに女子高生の実在性を浴びる事が出来る。実を言うとこれが私がこの映画に惹かれる最大の理由かもしれない。

これはメイルゲイズの入った、男として生を受けてしまった私には絶対に描く事の出来ない、女性監督だからこそ、それも山戸監督にしか切り取れない一瞬だろう。

現にオーディオコメンタリーで監督はこうも言っていた

「女の子だけの環境ってみんなが女の子というよりも役割分担、相対化されてつながる。委員長は女の子っぽい。大学とかに入ると一瞬でそれはなくなる。普通に適応する。社会化。消えてなくなってしまうたぐいの痛ましさ」 

 女子中学生でも、大学生でもいけない「女子高校生の一瞬」なのだ。

他にも、コメンタリーにて対談していた柚木麻子先生は

 後ろの生徒たちの実在感。ひとりひとりにドラマがありそう

 普通他の映画じゃ机を上にひっくり返すのなんて描かない(空き教室に机を集める時なんかに机の上に机の足を上にして乗っけたりするアレの事です)

等と評していた。それほどまでにこの映画の持つ「実在性」は凄まじいのである。

それと、委員長が抱くジェンダー感、兄への感情も監督のセンスが光りに光りまくっている。委員長の詠むポエムの殺傷力も中々。

 

あとはなんと言っても欠かせないのが3つの軸が交わり爆発する、最大の見せ場と言っても過言ではないあの文化祭でのダンスシーンだろう。

「宇佐美のために生きる、ピアノなんて絶対弾かない」と言っていた都

「意中の男性に見て欲しくて花を手入れしていたが、りこのために花を刈り取り、舞台の演出のために全て投げ捨てる」さく

「ひたすらマイペースを貫き、踊りたいままに踊る」りこ

言わずもがな作中屈指の名シーンでありクライマックス最大の盛り上がり、並行していた3人の感情が発露する時、この映画は最大のエモーションをこれでもかと言う位に叩きつけてきた

 追記:午前十時の映画祭で「アンタッチャブル」を見に行くに当たって思い出したのだが同監督ブライアン・デ・パルマ作「キャリー」はもしかしたらこの映画の下敷きにあるかもしれない

ティーンの女子高校生が主役、スプリットカット、ぐるぐる回るカメラアングル、そしてクライマックスに向けて積み上げてきたものが発露する学園祭。監督自身に尋ねてみたいものであるが、山戸監督とデ・パルマ...正反対なような気がしてならない

 

2.百合としての5つ数えれば君の夢

本作には2CP(カップリング)が登場する。「りこ×さく」と「宇佐美×都(というより都→宇佐美)」である。推しカプはりこさくです。

先に都と宇佐美の話をしておきましょう。

完全に都(ヤンデレ)→宇佐美→高木くんっていう構図になってるんですが途中から高木くんがぜんぜん出てこないので「高木くん、都に暗殺された説」がファンの中で出回ってるとコメンタリーで聴いて爆笑した。けれどそれほどまでに都→宇佐美の感情量はバカでかい。

一番好きなのは

「宇佐美、宇佐美、宇佐美、宇佐美都になりたい…」

「みが2個になってるよ、みみになって語呂悪い」

 というやり取り。凡人には思いつけない台詞回しのセンス。山戸結希の感性に平伏せ

かといって、これまたコメンタリーからの監督の台詞の引用になるが

「親しい関係になっても一瞬でなくなっちゃう、女子校の人って」

と、言う事でこれがもう破茶目茶に分かってしまって「百合のセンスありすぎる...」とまたまた何度目か分からない平伏を繰り返した。

百合のオタク界隈ではこの事を「思春期の一過性の感情」とよく形容する

都は普通に結婚してママになったらその情熱をママ友との争いに費やす

みたいコメンタリーも「うんうんそうなんだよな~~~」と首がもげるほどに頷いてしまった。

 

さてよっしゃ、ついにりこさくの話をするとしよう

マイペース天才肌の主人公が地味で内気な女の子を連れ回す、という超王道CPながらも

「君の美意識が好き」

だの先述した「実質告白」なパワーワードが飛び出してくるのでたまったもんじゃない

あと都とさくの会話の

さく「別にりことなんか仲良くねーし!」

都「強い否定って、肯定だよね」

なんてやり取りなんかも是百合見突起100回押しましたね...

というかりこさくは本筋を追っていく上で欠かせない重要なファクターなのである

最初は花屋のお兄さんが好きだったさく

それが次第にりこに感化されていき、途中では夜だった事も相まって花屋のお兄さんにどうしようもない男性性から来る恐怖を感じ取ってしまい、結果、お兄さんに見せたかった花を刈りりこのために費やすのである

 

そしてなによりラストのモノローグ

「あなたに、恋をしていました」

それだけでもヤバいのに、さくは髪型も変わってて、宇佐美たちにホースで水ぶっかける位マイペースになってて、完全にさくの中にりこは宿りまくっている

そして、花壇に植えていた花、向日葵

花言葉は「私はあなただけを見つめる・愛慕・崇拝・あこがれ・情熱・光輝」

見終えてすぐ「絶対これ花言葉に意味があるやつだ(花言葉の引用も百合作品ではよく行われます、百合って言うくらいだし。そういうこちら側では当たり前の文脈を知らずしらずのうちに回収してしまっている監督が本当におそろしい)」と思って検索をかけた結果がこれだよ。死ぬかと思ったわ。

 

総評

監督自身「百合っぽいとよく言われる」と仰っていたのだが私は「最初から百合前提で作る百合よりも主軸がちゃんとあってその結果、過程に生まれてしまった百合こそ最強の百合」という持論があり、本作は正しくそれである。

しかし単なる「百合映画」「アイドル映画」の枠組みに留まらず山戸結希という作家のセンスオブワンダーと東京女子流という演者の魂が呼応し完成した、何度も繰り返すようでしつこいが「奇跡のような映画」である

この映画は19の私に原体験として一生強く刻み込まれる爪痕を遺して行った。良くも悪くも、さくがりこに影響を受けたように、私は一生この映画に振り回される事になるんだろう、そんな映画だった

だから、居てもたってもいられなくなって、何故か数ヶ月ぶりにこうして筆を取る羽目になってしまった。しかしどうやら5000文字を越えるこの記事、筆の勢いは留まる事を知らず、体感時間一瞬のうちにして書き上げてしまった

 

「5つ数えれば君の夢」を受け取ってしまったからには。

そうせざるを得ない、それほどまでに人を動かす衝動、熱意に当てられてしまったからには、私にはこうすることしか出来なかった。

「劇場版ソードアート・オンライン オーディナル・スケール」~感想、そして主題を読み解く~

2017年2月20日、映画オタクの元へある急報が舞い込んで来た

news.livedoor.com

 

ソードアート・オンライン。最後に読んだのはどうやら五年前の中学時代、9巻で止まっており自分の中で勝手に「終わったコンテンツ」だと思っていたこの映画が今このタイミングで映画化し、ましてや初登場1位?興行収入4億円?

その答えを求め我々調査班は急遽チャリを飛ばし単身自宅から10分の映画館へと足を運んだ

 

まずチケットを取る際からいきなり度肝を抜かれた。平日の昼の13時からの回にもかかわらず半数近くの座席が埋まっているではないか

この間かの名作「マッドマックス ブラック&クロームエディション」を初日に見に行った時は10人くらいしか居なかったし、去年見たこれまた傑作「何者」に至っては年配のおじ様と僕の貸切状態だったりした

思えば流行りの映画を見に行くのは久々だなあと戦々恐々としながらいざ入場。シアターは異常な熱気とオタクスメルに包まれていた...あと観客の服の黒率の高さが半端なかった、9割くらい黒かった

これは†黒の剣士†と呼ばれた主人公キリトへのリスペクトを込めたものなのだろうか、だとしたら彼らには苦難の道程となることだろう。なぜならこの映画においてキリトは、もう1本チンポを生やす事になるのだから...

 

 と、言う訳で劇場版ソードアート・オンライン

おもしろい、との意見は多々聞くがそんな諸兄が口々に言うのが

「戦闘シーンがいい」「キャラが可愛い」「おっぱい」

間違ってはいない。けれどもしや、僕がこの映画を「おもしろい!」と思った理由の1mg足りとも彼らは摂取することが出来ていないのではないだろうか。それは勿体無い、そう思い立ちこの記事を執筆することにした。

なので当然ながら、この記事は既鑑賞者向けへのものとなるので以下ネタバレ注意

 

本作はコナン風に副題をつけるなら「名も無き者への鎮魂歌」

この作品で描かれている主題は主に「愛」「去勢された男性性の復権」「記録に残らない選ばれなかった側の人間たち、そして記憶」と言ったものが挙げられる

順を追って説明していこう。

まず愛。これは言わずもがなで話のキーとなるキリト、エイジ、重村教授、三者三様のバックボーンがあるが彼らの行動動機は全て「愛」だ

キリトはアスナへ、エイジと教授はユナへの愛情を元に行動を起こしている

しかしそのキリトとアスナのイチャイチャ描写の胃もたれっぷりったらありゃしない。冒頭の流星のシーンから「いやこれオタク向け映画でしょ...カップル向けでやってくれ」と早速挫けそうになった

話は微妙に変わるが、Twitterでは「S(すごい)A(アスナの)O(おっぱい)」というフレーズが流行している

これに対して僕は

 と思ってしまうレベルなのでほんとうにここらへんはスルーしてくれて良い

のでついでに言うが性的魅力と言えばスグは酷かった

f:id:nnnaritayan:20170224002422p:plain

 

これ、オーグナーっていう左耳にかけてるAR器具についての話をするシーンなんですが「これ、使いなさいよね」って言いながらこのカットなんですよね

完全に「これ(おっぱい)使ってシコれ」って事でしょ

スグ、今回さして見せ場もなかったし、妹キャラを押し出せる話でもないので巨乳を主張しオタクの性消費を促進するためだけのキャラだったと言っても過言ではないんですよね...

その後も援軍に来たと思ったら胸の谷間からユイが飛び出してくる、今回のスグ、おっぱいしか出番ねーじゃねえか

オタクにシコられるために生まれてきたキャラクターの悲哀を感じて僕は大変悲しくなりました...

 

 それでは次の主題「失われた男性性の復権」へと移りましょう

VR世界ではナンバーワンプレイヤー、英雄として名を馳せたキリトですが、ARの前には「ラグが酷い」と文句を垂れ「運動不足よ!」とアスナに叱咤される始末

そして主食は具なしペペロンチーノ。以前の姿は見る影も無く、絵に描いたような情けない草食系男子と化してしまったのだ

しかしそんな彼も仲間の、そしてアスナの危機に瀕してついに立ち上がる

その際のトリガーとなるのがアスナとのベッドインだ。セックスというのは昔から男性性を取り戻すという演出の際によく使われてきた

 

例えば「北北西に進路を取れ」アルフレッドヒッチコック監督/1959年

なんかが分かり易い例だろう

妻に捨てられマザコン気味という情けない主人公が陰謀に巻き込まれなんやかんやあった結果、最後は男になり体を重ねる

ちなみにこの体を重ねるというのは直接描かれず、ラストで主人公とヒロインが列車に乗って旅立つのですがその列車がトンネルをくぐる絵で終わるんですね

これは列車=男性器、トンネル=女性器、という訳です。とても秀逸で好きな映画です

 

そうしてキリトは今までAR世界では剣1本で戦ってきたがついに、アインクラッドにおける獲物、双剣を手にする。竿がもう1本生えてきたのだ

何も冗談で言っているのではない。剣というものは男性器のメタファーである

アメリカにおいてガンマンが男性性の象徴であるのは広く知られた話だが、そんな男たちが描かれた「荒野の七人」が「七人の侍」のリメイクであることからも明らかだろう

前者における獲物は銃、後者は刀。

キリトはアスナと体を重ねることで剣を増やした=男性器が増えちゃった...という冗談はともかく、かつての英雄キリトへと戻るのだ

 

そして最後、これが1番重要なテーマである

鑑賞中「街並を俯瞰(上)から映す絵が多かった」とどこか引っかかりませんでしたか?

これには重要な意味があります

ビル群の光、街行く車たち、人々の営みの灯火、これらの1つ1つに、歴史には決して残らない営みが存在する

これは冒頭と、そしてラストに出てくる流星との対比になっている。流れ行く一瞬の流星。記録には残らないが、人々の脳内には確かに記憶される

そしてそれはかけがえのない、尊い物であると

 

だからこそラストバトルのあのアスナの最後の一撃のカタルシスは凄まじいモノがある

あれは「マザーズロザリオ編」において名を遺す事なく死んでいった、あのアスナの背後に出ていたユウキと言う女の子が編み出した剣技なのだ

「英雄の裏側に存在した名も無きものたちへの賛歌」を締め括るにはなんと素晴らしいラストであろうか。わかりやすくテーマそのものである。歴史には残らずともアスナの中に生き続ける彼女の遺した技によって幕が降ろされるのだ

その為マザーズ・ロザリオ編を既読かどうかであのシーンの興奮は1と1000くらいの差がある、もしマ(ry)編を見ずに本作を見ていた人がいるのなら、非常に勿体無い...

 

 

と、長くなったがこれで主題に関する解説は終わった

この記事を通して少しでもみなさんのこの作品に対する解釈を深める事ができたならそれより嬉しい事はない

 

P.S 口が悪いので見なくていいと思います

おもしろい映画だったのは確かなのだがどうしても大衆賛歌的テーマが受け付けない

というのもED終わった後のCパート見ながら前のオタクが「うわぁ~繋がったわ~www」とかドヤ顔で群れるオタク特有の大声でツレの友達に解説してるのな

知識とは自らの考えの土台となるものではなくてそうやって見せびらかすものじゃねーんだよ、やっぱり現実を生きる名も無きものたちがどうでもよすぎる

というか 

観覧車の高さから人々を見下し「あそこに見える点の一つが永久に動くことを止めたからといって何か憐憫の情を感じるかね。もし動かなくなった点の1つにつき2万ポンドが払われるとしたら」なんて言い放つ映画やドストエフスキー罪と罰が大好きな僕が記録に残ることのない大衆的人々の営みをよしとする映画と噛み合うはずがなかったんですよね。これは作品の善し悪しというよりは個人の好みなのでどうしようもない

まあ繰り返しになりますが、そんな皆様が何らかの機会にこの記事に触れて気づきを得てくれればそれより嬉しいことはありません

 

 

 

 

 

 

 

考察 画面の動きから見る『ポッピンQ』

※注意  ネタバレしかありません

 

 

最初に結論から述べます。

この映画は

前へと進む動き=画面の右から左(←の動き)

それを障害する様々な要因=画面の左から右(→の動き)

というように動く構造になっています

 

一番分かり易い例を挙げてみます

 

この映画の目玉である"11.88"のシーン

過去の陸上のシーンではテレビ等でもよく見るように

トラックの左側から右側(→)

それを乗り越え沙紀の元へと向かうシーンでは

吊橋を右側から左側(←)

へと駆け抜けます

何もこじ付けじゃありません、この映画を最初から振り返ってみます

 

最初にこれらの動きが見られるのはオープニング(のはず)

伊純以外の面々は欠片を手にし、卒業式へと向かう為に改札を通ります(そういえば沙紀だけ改札を通るシーンじゃなくて電車へと乗り込むシーンだったのは何故なんだろう?)

この時の動きがみんな右側から左側(←)です

 

ですがその前に伊純のみ改札を抜けた後、学校とは反対方向への電車と飛び乗り砂浜へと向かいます

これは言わずもがな逃避の動きのため電車は左側から右側(→)へと向かいます

 

ここでTwitterで見かけた一つの疑問を引用してみます

Q.他のみんなは欠片を拾ってそのまま学校へと向かったのにどうして伊純だけ砂浜に立ち寄る必要があったの?伊純も道中で拾ってそのまま改札通ればよかったじゃん?

 

これに対しても先程から述べている意見を当てはめてみると

A.冒頭でこの動きを示しておく必要があった、ということになります

登場人物が前へ進む時は右から左へ、後退してしまう時は左から右へと進んで行きますよ~という説明のためにこの描写が必要だったのです

実際その後欠片を拾った伊純もまた、改札を右側から左側(←)へと通り抜け、時の谷へとやってきます

 

さて、時の谷へとやってきた伊純は柱の上で同位体ポコンと遭遇します。

ポコンと共に飛び降りた後、これもまた伊純は右側から左側(←)へと歩いて行きます

その後初めてキグルミに遭遇した伊純は逃げるので左側から右側(→)へと走りますが、あさひの方へと逃げ込む際には右側から左側(←)の構図に変わります

この直後防犯ブザーを鳴らした小夏もテントの中に逃げ込みますが、それは作戦通りなので右側から左側(←)の動きになっています(ここめっちゃ感心した)

 

と言うように散々証拠を挙げて来た通りこの左右の動きの話は制作陣も意識して作っているものだと思われます(というか漫画も小説も日本では右から左に進んでいくものですし)

が、1シーンだけ明確に、何故か右側から左側(←)の動きを使うべき場面で左側から右側(→)の動きになっているシーンがあります

 

それはキグルミに攫われたレミィと沙紀を助ける鍾乳洞のシーン

その直前にレミィを捕まえたキグルミ(グロスって個体らしいです)に対して伊純が向かっていくのですがこれは「まだ敵わない!」と劇中でも言われているように左側から右側(→)の動きが採用されていました

そしてもう1度同じキグルミ達へと立ち向かっていく訳ですがここで伊純たちは能力を手にし無双する明らかな勝ち試合を繰り広げます

なのに動きは後退を意味する左側から右側(→)

これはおかしいんじゃないか?と思いましたが改めて考えてみるとこのシーンはこれで良いという考えに至りました

というのも、このシーンではキグルミを差し向けた敵であるはずのレノは彼女たちが能力に目覚めた瞬間不敵な、嬉しそうな、笑みを浮かべます。そしてそのままレノは戦う事無く欠片をおいて自滅

 

試合には勝ちましたが本編が終わってもなお謎はそのままです。ので、そう言った疑問、違和感を植え付けるためにわざとこのシーンは活躍シーンでありながら左側から右側(→)の動きを採用しているのではないかと思います

(実際レノは何者なんでしょうね?次なる敵のために彼女たちを纏め上げた必要悪だったのか、けれどもCパートでは「破壊を愛する~云々」的な事を言っています。敵が強ければ強いほど、壊し甲斐があるほど喜ぶとか?だとすると彼女たちが能力に目覚めたこと自体が次回作ではマイナス要因になるので画面の動きと一致します。とにかく能力の発芽は素直に喜べるものではなさそうですね)

 

ここから後は冒頭にも述べた11.88のシーンなんかがありますね。過去の左側から右側(→)の力に対して直接的に右側から左側(←)の力が打ち勝っていて一番分かり易く、それ故にカタルシスを得やすいシーンになっています

あと塔から伊純が落ちるのは左側から右側(→)でそれを沙紀が救うのは右側から左側(←)だったりします。動きを意識することで名シーンがさらに尊みを増しますね...

 

しかしこの動きの流れから読み取って行くとラストシーンはあまりにも美しすぎます

あの時の100m走と同じように左側から右側(→)に走っていき、深町へとバトンを繋ぐ...と見せかけてそのままトラックを周り動きは右側から左側(←)へと変換されます

つまり、過去を乗り越え前に進むという作品のテーマそのものがこの1シーンにギッチリと詰まっているのです。天才か?

 

 

以上、初のブログ記事になりますがここまで読んでくれた方々に感謝を。

この記事を読んでポッピンQがもう一度見たくなったという方もそうでない方も是非もう一度劇場へと足を運んで下さいますと筆者は泣いて喜びます