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Girls in Lost Paradise

映画と百合と女児向けアニメが好きなオタクのブログ

「劇場版ソードアート・オンライン オーディナル・スケール」~感想、そして主題を読み解く~

2017年2月20日、映画オタクの元へある急報が舞い込んで来た

news.livedoor.com

 

ソードアート・オンライン。最後に読んだのはどうやら五年前の中学時代、9巻で止まっており自分の中で勝手に「終わったコンテンツ」だと思っていたこの映画が今このタイミングで映画化し、ましてや初登場1位?興行収入4億円?

その答えを求め我々調査班は急遽チャリを飛ばし単身自宅から10分の映画館へと足を運んだ

 

まずチケットを取る際からいきなり度肝を抜かれた。平日の昼の13時からの回にもかかわらず半数近くの座席が埋まっているではないか

この間かの名作「マッドマックス ブラック&クロームエディション」を初日に見に行った時は10人くらいしか居なかったし、去年見たこれまた傑作「何者」に至っては年配のおじ様と僕の貸切状態だったりした

思えば流行りの映画を見に行くのは久々だなあと戦々恐々としながらいざ入場。シアターは異常な熱気とオタクスメルに包まれていた...あと観客の服の黒率の高さが半端なかった、9割くらい黒かった

これは†黒の剣士†と呼ばれた主人公キリトへのリスペクトを込めたものなのだろうか、だとしたら彼らには苦難の道程となることだろう。なぜならこの映画においてキリトは、もう1本チンポを生やす事になるのだから...

 

 と、言う訳で劇場版ソードアート・オンライン

おもしろい、との意見は多々聞くがそんな諸兄が口々に言うのが

「戦闘シーンがいい」「キャラが可愛い」「おっぱい」

間違ってはいない。けれどもしや、僕がこの映画を「おもしろい!」と思った理由の1mg足りとも彼らは摂取することが出来ていないのではないだろうか。それは勿体無い、そう思い立ちこの記事を執筆することにした。

なので当然ながら、この記事は既鑑賞者向けへのものとなるので以下ネタバレ注意

 

本作はコナン風に副題をつけるなら「名も無き者への鎮魂歌」

この作品で描かれている主題は主に「愛」「去勢された男性性の復権」「記録に残らない選ばれなかった側の人間たち、そして記憶」と言ったものが挙げられる

順を追って説明していこう。

まず愛。これは言わずもがなで話のキーとなるキリト、エイジ、重村教授、三者三様のバックボーンがあるが彼らの行動動機は全て「愛」だ

キリトはアスナへ、エイジと教授はユナへの愛情を元に行動を起こしている

しかしそのキリトとアスナのイチャイチャ描写の胃もたれっぷりったらありゃしない。冒頭の流星のシーンから「いやこれオタク向け映画でしょ...カップル向けでやってくれ」と早速挫けそうになった

話は微妙に変わるが、Twitterでは「S(すごい)A(アスナの)O(おっぱい)」というフレーズが流行している

これに対して僕は

 と思ってしまうレベルなのでほんとうにここらへんはスルーしてくれて良い

のでついでに言うが性的魅力と言えばスグは酷かった

f:id:nnnaritayan:20170224002422p:plain

 

これ、オーグナーっていう左耳にかけてるAR器具についての話をするシーンなんですが「これ、使いなさいよね」って言いながらこのカットなんですよね

完全に「これ(おっぱい)使ってシコれ」って事でしょ

スグ、今回さして見せ場もなかったし、妹キャラを押し出せる話でもないので巨乳を主張しオタクの性消費を促進するためだけのキャラだったと言っても過言ではないんですよね...

その後も援軍に来たと思ったら胸の谷間からユイが飛び出してくる、今回のスグ、おっぱいしか出番ねーじゃねえか

オタクにシコられるために生まれてきたキャラクターの悲哀を感じて僕は大変悲しくなりました...

 

 それでは次の主題「失われた男性性の復権」へと移りましょう

VR世界ではナンバーワンプレイヤー、英雄として名を馳せたキリトですが、ARの前には「ラグが酷い」と文句を垂れ「運動不足よ!」とアスナに叱咤される始末

そして主食は具なしペペロンチーノ。以前の姿は見る影も無く、絵に描いたような情けない草食系男子と化してしまったのだ

しかしそんな彼も仲間の、そしてアスナの危機に瀕してついに立ち上がる

その際のトリガーとなるのがアスナとのベッドインだ。セックスというのは昔から男性性を取り戻すという演出の際によく使われてきた

 

例えば「北北西に進路を取れ」アルフレッドヒッチコック監督/1959年

なんかが分かり易い例だろう

妻に捨てられマザコン気味という情けない主人公が陰謀に巻き込まれなんやかんやあった結果、最後は男になり体を重ねる

ちなみにこの体を重ねるというのは直接描かれず、ラストで主人公とヒロインが列車に乗って旅立つのですがその列車がトンネルをくぐる絵で終わるんですね

これは列車=男性器、トンネル=女性器、という訳です。とても秀逸で好きな映画です

 

そうしてキリトは今までAR世界では剣1本で戦ってきたがついに、アインクラッドにおける獲物、双剣を手にする。竿がもう1本生えてきたのだ

何も冗談で言っているのではない。剣というものは男性器のメタファーである

アメリカにおいてガンマンが男性性の象徴であるのは広く知られた話だが、そんな男たちが描かれた「荒野の七人」が「七人の侍」のリメイクであることからも明らかだろう

前者における獲物は銃、後者は刀。

キリトはアスナと体を重ねることで剣を増やした=男性器が増えちゃった...という冗談はともかく、かつての英雄キリトへと戻るのだ

 

そして最後、これが1番重要なテーマである

鑑賞中「街並を俯瞰(上)から映す絵が多かった」とどこか引っかかりませんでしたか?

これには重要な意味があります

ビル群の光、街行く車たち、人々の営みの灯火、これらの1つ1つに、歴史には決して残らない営みが存在する

これは冒頭と、そしてラストに出てくる流星との対比になっている。流れ行く一瞬の流星。記録には残らないが、人々の脳内には確かに記憶される

そしてそれはかけがえのない、尊い物であると

 

だからこそラストバトルのあのアスナの最後の一撃のカタルシスは凄まじいモノがある

あれは「マザーズロザリオ編」において名を遺す事なく死んでいった、あのアスナの背後に出ていたユウキと言う女の子が編み出した剣技なのだ

「英雄の裏側に存在した名も無きものたちへの賛歌」を締め括るにはなんと素晴らしいラストであろうか。わかりやすくテーマそのものである。歴史には残らずともアスナの中に生き続ける彼女の遺した技によって幕が降ろされるのだ

その為マザーズ・ロザリオ編を既読かどうかであのシーンの興奮は1と1000くらいの差がある、もしマ(ry)編を見ずに本作を見ていた人がいるのなら、非常に勿体無い...

 

 

と、長くなったがこれで主題に関する解説は終わった

この記事を通して少しでもみなさんのこの作品に対する解釈を深める事ができたならそれより嬉しい事はない

 

P.S 口が悪いので見なくていいと思います

おもしろい映画だったのは確かなのだがどうしても大衆賛歌的テーマが受け付けない

というのもED終わった後のCパート見ながら前のオタクが「うわぁ~繋がったわ~www」とかドヤ顔で群れるオタク特有の大声でツレの友達に解説してるのな

知識とは自らの考えの土台となるものではなくてそうやって見せびらかすものじゃねーんだよ、やっぱり現実を生きる名も無きものたちがどうでもよすぎる

というか 

観覧車の高さから人々を見下し「あそこに見える点の一つが永久に動くことを止めたからといって何か憐憫の情を感じるかね。もし動かなくなった点の1つにつき2万ポンドが払われるとしたら」なんて言い放つ映画やドストエフスキー罪と罰が大好きな僕が記録に残ることのない大衆的人々の営みをよしとする映画と噛み合うはずがなかったんですよね。これは作品の善し悪しというよりは個人の好みなのでどうしようもない

まあ繰り返しになりますが、そんな皆様が何らかの機会にこの記事に触れて気づきを得てくれればそれより嬉しいことはありません

 

 

 

 

 

 

 

考察 画面の動きから見る『ポッピンQ』

※注意  ネタバレしかありません

 

 

最初に結論から述べます。

この映画は

前へと進む動き=画面の右から左(←の動き)

それを障害する様々な要因=画面の左から右(→の動き)

というように動く構造になっています

 

一番分かり易い例を挙げてみます

 

この映画の目玉である"11.88"のシーン

過去の陸上のシーンではテレビ等でもよく見るように

トラックの左側から右側(→)

それを乗り越え沙紀の元へと向かうシーンでは

吊橋を右側から左側(←)

へと駆け抜けます

何もこじ付けじゃありません、この映画を最初から振り返ってみます

 

最初にこれらの動きが見られるのはオープニング(のはず)

伊純以外の面々は欠片を手にし、卒業式へと向かう為に改札を通ります(そういえば沙紀だけ改札を通るシーンじゃなくて電車へと乗り込むシーンだったのは何故なんだろう?)

この時の動きがみんな右側から左側(←)です

 

ですがその前に伊純のみ改札を抜けた後、学校とは反対方向への電車と飛び乗り砂浜へと向かいます

これは言わずもがな逃避の動きのため電車は左側から右側(→)へと向かいます

 

ここでTwitterで見かけた一つの疑問を引用してみます

Q.他のみんなは欠片を拾ってそのまま学校へと向かったのにどうして伊純だけ砂浜に立ち寄る必要があったの?伊純も道中で拾ってそのまま改札通ればよかったじゃん?

 

これに対しても先程から述べている意見を当てはめてみると

A.冒頭でこの動きを示しておく必要があった、ということになります

登場人物が前へ進む時は右から左へ、後退してしまう時は左から右へと進んで行きますよ~という説明のためにこの描写が必要だったのです

実際その後欠片を拾った伊純もまた、改札を右側から左側(←)へと通り抜け、時の谷へとやってきます

 

さて、時の谷へとやってきた伊純は柱の上で同位体ポコンと遭遇します。

ポコンと共に飛び降りた後、これもまた伊純は右側から左側(←)へと歩いて行きます

その後初めてキグルミに遭遇した伊純は逃げるので左側から右側(→)へと走りますが、あさひの方へと逃げ込む際には右側から左側(←)の構図に変わります

この直後防犯ブザーを鳴らした小夏もテントの中に逃げ込みますが、それは作戦通りなので右側から左側(←)の動きになっています(ここめっちゃ感心した)

 

と言うように散々証拠を挙げて来た通りこの左右の動きの話は制作陣も意識して作っているものだと思われます(というか漫画も小説も日本では右から左に進んでいくものですし)

が、1シーンだけ明確に、何故か右側から左側(←)の動きを使うべき場面で左側から右側(→)の動きになっているシーンがあります

 

それはキグルミに攫われたレミィと沙紀を助ける鍾乳洞のシーン

その直前にレミィを捕まえたキグルミ(グロスって個体らしいです)に対して伊純が向かっていくのですがこれは「まだ敵わない!」と劇中でも言われているように左側から右側(→)の動きが採用されていました

そしてもう1度同じキグルミ達へと立ち向かっていく訳ですがここで伊純たちは能力を手にし無双する明らかな勝ち試合を繰り広げます

なのに動きは後退を意味する左側から右側(→)

これはおかしいんじゃないか?と思いましたが改めて考えてみるとこのシーンはこれで良いという考えに至りました

というのも、このシーンではキグルミを差し向けた敵であるはずのレノは彼女たちが能力に目覚めた瞬間不敵な、嬉しそうな、笑みを浮かべます。そしてそのままレノは戦う事無く欠片をおいて自滅

 

試合には勝ちましたが本編が終わってもなお謎はそのままです。ので、そう言った疑問、違和感を植え付けるためにわざとこのシーンは活躍シーンでありながら左側から右側(→)の動きを採用しているのではないかと思います

(実際レノは何者なんでしょうね?次なる敵のために彼女たちを纏め上げた必要悪だったのか、けれどもCパートでは「破壊を愛する~云々」的な事を言っています。敵が強ければ強いほど、壊し甲斐があるほど喜ぶとか?だとすると彼女たちが能力に目覚めたこと自体が次回作ではマイナス要因になるので画面の動きと一致します。とにかく能力の発芽は素直に喜べるものではなさそうですね)

 

ここから後は冒頭にも述べた11.88のシーンなんかがありますね。過去の左側から右側(→)の力に対して直接的に右側から左側(←)の力が打ち勝っていて一番分かり易く、それ故にカタルシスを得やすいシーンになっています

あと塔から伊純が落ちるのは左側から右側(→)でそれを沙紀が救うのは右側から左側(←)だったりします。動きを意識することで名シーンがさらに尊みを増しますね...

 

しかしこの動きの流れから読み取って行くとラストシーンはあまりにも美しすぎます

あの時の100m走と同じように左側から右側(→)に走っていき、深町へとバトンを繋ぐ...と見せかけてそのままトラックを周り動きは右側から左側(←)へと変換されます

つまり、過去を乗り越え前に進むという作品のテーマそのものがこの1シーンにギッチリと詰まっているのです。天才か?

 

 

以上、初のブログ記事になりますがここまで読んでくれた方々に感謝を。

この記事を読んでポッピンQがもう一度見たくなったという方もそうでない方も是非もう一度劇場へと足を運んで下さいますと筆者は泣いて喜びます